コーヒーブレイク

yokkobukko2011-02-08

最近読んだ本あれこれ。階下のお姑さんが貸してくれた中島京子の「小さいおうち」。女中、お手伝いさん話なら「本格小説」のが迫力あった、なんかものたりないの、淡くて、とお姑さんが言っていた。どっかおもしろいとこあるのか発見してくれ、って感じで貸されてしまったが、わたしにとっても淡白だった。つかみきれなかった。重厚感出してる構造は無視して(なんか優等生な構造だったから)、この本のいちばんのおもしろさは、書く人は嘘をつく、という点だと思う。たぶんそれ書きたい、その十行くらいを書きたいために、こんなにたくさんの淡いことを書いたんだろうと思う。
こういう淡白な本を読むと、感情はどこにあるのだろうかと思う。ひとのなかにあるものだとばかり思ってたけど。まさか現象や事象のほうにくっついているのだろうか。それはひとと分けて考えられるものなんだろうか。風景がそう見えるみたいに、見る側が解釈するだけなんだろうか。この本を読んでいると、自分もだんだん淡くなって、風景になる気がする。
漆原友紀「水域」
とりかえしのつかないことをしたとか、どうしようもない後悔があって、フィクションでそれを修復できないか、癒せないか、補完できないかという、そういう創作物、そういう物語、確固としたジャンルありますね。映画とか多い。そういうのは気持ちよく泣けるし、どうかするとこっちも癒えた〜みたいな錯覚におちいるときもあるし、もしかしてフィクションってそういうためにあるのかなとか思ってしまうときあるけど、そんなんばっかだと枯渇するような、羽ばたけなくなるような、風呂上がりの水分補給くらいおっつかない感じする。圧倒的に足りてない、感じがする。追いついても現在から一歩過去、くらいで、そうかあ、不毛なんだな。大きなお墓をたてました、という、そういう。
(そういう意味では村上春樹はベクトルが逆で、むしろ取っていく、奪っていくことに重点置いてるんだろう。)
漆原さんの描く話は、トラウマ修復にすれすれ近いけど、ちょっとちがうと思う。このひとのは癒えるとか癒えないとか、トラウマとかそういうんじゃない、最初はたしかに、というか一見そんなんだけど、すれすれちがう。うまくいえん。だんだん境界の外へと出て行ってしまう。蟲師は一話一話が短くてなかなかそこが出にくかった、のでなんかトラウマ癒す話になってた。このくらい長くてようやく、このひとらしさ出るんだろう。