夜明けの光とユーフォーテーブル

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 昨年の11月から憑かれたように劇場版『鬼滅の刃~無限列車編』に通い続けている。

 のっけの風にそよぐ杉林のシーンから、エンドロール末のあの画まで、劇伴含め、一シーンも逃さず、映画一本まるまる脳内で再生できるようになれないか、とかなり本気で考えている。

 全編はムリでも、せめて終盤、魘夢との死闘を経てぼろぼろになった炭治郎が空を見上げて「夜明けが近づいている」とつぶやくところから、炭治郎がおのれの左胸をぎゅっと右手で掴む本編最後のカットまでは、いつでも再生できるようになりたいと思っている。

 ほんとかな、いや、ちょっと嘘かも。いろいろ言い訳しているだけで、まだまだ満たされない。もっともっと見たい、ってただそれだけなんだと思う。

 

 ところで「夜明けが近づいている」と炭治郎がつぶやいてから、実際に夜が明けるまでに、物語の中で経過した時間は、いったいどのくらいだろう? 小一時間? 毎朝四時半に起床している私の感覚からすると、あの白んだ東雲の様相は、日の出まで20分、あるかないかというところだ。そして上映時間も、だいたいそのくらいだと思う。

 ・・・20分!?

 猗窩座と煉獄のあいだで繰り広げられる、あの戦いが、たった20分かそこらの出来事なのか!? とあらためて衝撃受ける。

 先日オンライン鬼滅祭で、テレビシリーズと劇場版から幾つかのカットの原画が紹介されるのを見た。数秒のカットに100から300枚強。12話の霹靂一閃のカットは7秒で376枚(1秒53枚?)だった。カットによって濃淡あるだろうし、正確なカット数もわからないので、不毛な計算になってしまうが、それでも煉獄猗窩座戦のあの濃厚さからして、20分(1200秒)だと原画6万枚以上になるのではないか? 

 なにが言いたいんだよ、って自分でも腹立ってきたけど、もうちょっとがんばってみます。

 たとえば我々が、日頃、なにかしらの出来事を知覚し経験するとき、十分の一秒、百分の一秒単位でその推移を捉えているだろうか? 脳のどこかが拡張しているとか、特殊な能力がある場合を除けば、我々が全感覚を開放した状態で、なにかを経験しきることはほとんどない、と思う。ないとは言わない。あるとすれば、その時間は一生分の時間に匹敵するほど、含蓄のある濃密なもの(たとえば邯鄲の夢のような)になり得るだろう。

 ufotableのアニメーションはそういう時間をつくろうとしてるんじゃないか、猗窩座と煉獄のあいだで刹那に共有される時間は、そういう、人生に匹敵するほど濃密な時間なんじゃないか、と言いたいのだ、私は、たぶん。

 とすれば、たかが20回30回見たくらいで、満足できないのは当然という気がしてくる。←自分を正当化しようとしています(^.^)

                 劇場版『鬼滅の刃』パンフレットより

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  ufotableの演出がニクいのは、猗窩座と煉獄が共有するその内なる時間と並行して、朝ぼらけの空模様という外界の時間の推移を描いてくるところだ。

 つまり画面前景では、猗窩座煉獄戦が白熱しているが、その背景では炭治郎が「夜明けが近づいている」とつぶやいて以降もずっと、地上の熱戦なんてまるで無関係というふうに、坦々と朝ぼらけが進行しているのである! 

 最初に日の到来を感知するのは猗窩座だ。その仄暗く沈む瞳の下部が、明け初める空を映して青く光る。

 「夜が明ける!! ここには陽光が差す・・・逃げなければ!!」

 この夜、この戦いにおいて初めて猗窩座の集中が切れる瞬間だ。その首には煉獄渾身の一撃が食い込む。右腕は煉獄のみぞおちを貫いている。とどめを刺そうと放った左拳は手首を煉獄にがっちり掴まれている。にわかに焦り、身を剥がそうとする猗窩座と、それを取り押さえる煉獄の雄叫びがぶつかりあって、あたりに大砲のように轟きわたる。組み合うふたりを捉えるカメラがぐるりとパーンする。翻る煉獄の羽織の縁、髪、猗窩座のまつげ、首に食い込む刃の上に暁の光が走る。この描写!

 硬直していた時間がにわかに動きだす。

 「煉獄さんになんといわれようと、ここでやらなきゃ」刀を拾って駆け出す炭治郎の躍動する髪の先が赤い光に縁どられる。脱線した車両の腹が朝日に輝きはじめる、我に返り、猗窩座に飛びかからんとする伊之助の輪郭を、いま、まさに生まれ出ようとする日の光が縁取る。

 なんという光。

 朝の光はめくるめく表情を変える。最初、山間に開けたその荒野にようやく届いた光は、ものものの輪郭を赤く縁取ったのちに、黄金色になり、きらきらと白色の輝きとなって、あたりに広がっていく。

 戦いは猗窩座の逃走によって、唐突に、強引に、野蛮な形で終わりを迎える。ともに武の道を究めよう、至高の領域を目指そう、と圧倒的な強さでもって煉獄を誘った猗窩座の言葉も、朝の光のなかでしらじらと色褪せていく。煉獄の腹に残された、猗窩座のちぎれた腕も、日の光の中で塵となって消え失せる。

 なんという光。

 『鬼滅の刃』というアニメ作品には、実に多くの夜明けが描かれる。

 お堂の鬼との戦い明け、最終選別明け、沼の鬼との戦い明け、矢琶羽と朱紗丸との戦い明け、那田蜘蛛山の戦い明け、そしてこのたびの夜明け・・・そのそれぞれをufotableは実に丁寧に描いている。原作を読めば、炭治郎がこの先にもいくつもの印象的な夜明けを迎えることがわかる。ただufotableは、原作ではわりとあっさり描かれた夜明けをも、印象強めに描いてくる。『鬼滅の刃』にとって「夜明け」が重要なファクターだと解釈して意識的にあえて強めに演出しているのだと思う。

 そのうえで今日のこの夜明けは特別だ。煉獄にとっての最後の夜明けであり、炭治郎がのちに繰り返し思い出す夜明けなのだ。だからして、この特別な夜明けの光の演出には、やはりもってufotableのなみなみならぬ読み込みの深さと思い入れを、ひしひしと感じる。

 とりわけしびれるのは、煉獄さんが「竈門少年、猪頭少年、黄色い少年、もっともっと成長しろ、そして今度は・・・」とここまで語ったこの瞬間の光の変化だ。ほんのわずかに、しかし確かに明るさが増す。ほんと、わずかに。それは自然がたまたま人の情動にシンクロしてしまっただけなんです、って感じの演出になっている。そして煉獄さんの「君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ、俺は信じる、君たちを信じる」という言葉が続く。

 なんという光。

 この朝の光は、この物語の結末、最終決戦明けのあの朝をも照らしている。

 万一、ここで、アニメーション制作が終わることになっても(終わりませんが!)、悔いはなし、という気迫でもって描かれた朝だと思う。

 

 うーむ、

 またしても胸いっぱいになりました。

 結局、毎回、ufotable、すごくないですか、という話なのでした。

 おしまい。

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