つらつらのつづき

昔、三冊目の翻訳の依頼が来たときに、それまでとは比べものにならない、本格的な、自分のキャパシティをはるかに超えたでかい仕事に、日ごろ夢見がちで向こう見ずなわたしもさすがに我に返り、受けるかどうか本気で迷い、おそるおそる師匠のH先生に意見を問うたところ、「得心したうえでやりなさい」みたいなことを言われて、「得心」というのはよくわからないけど、考えてみたら、大学のような組織に属しているわけでなし、自分には地位や名誉のような守るべきもの、失うものなんてなかったと気づき、よしやったろ!と覚悟を決めて、結局、軽く引き受けてしまった。
ああいうのは「得心」とは言わないのだろ、といまは思う。結局、よくわかってなかった。「怖さ」を。野崎さんみたいにどこかの先生に誤訳を指摘されてケチョンケチョンにやられる、ああいうのじゃない。あれもたしかに怖い(ものすごく怖い)けど、そういうのじゃなくて、作品と対峙する怖さ、一歩踏み込んでいく、洞察する、解釈する怖さを、わたしは、ぜんぜんわかってなかった。
作品だけじゃない、目の前の事象にしたってそうだ。さらさら流れていくときは、ちっとも怖くないのに、いざ踏み込もうとすると、それはいきなり様を変える。「わたし」の問題なんだよな。「得心」って素人としての覚悟、このわたしとしての覚悟のことなんじゃないかな。エンケンだなあ・・・
 スリジエメレンゲのケーキ ふわふわっす