養生

yokkobukko2010-01-13

本当ならベビーシッターの日なんだけど、風邪の治りかけにあるので休む。妊婦さんにうつしてはまずい。ので、病気だけど、エネルギーあまってる小学生みたいな状態でお留守番(今日はおうちにだれもいません)。先週末から怒涛の勢いで梨木本読み込み、手元に未読本なくなってしまった。「沼地・・・」「裏庭」「西の魔女が死んだ」。沼地がパワフルで、読了しても心が落ち着かず(いろんなものが目覚めちゃって萌え、きざして、千尋状態でわーわー騒いで静まらない)、結果鎖読書になったが、現象が徐々に納まっていくには適当な順番だった。しかし「りかさん」とか以前に、いちばん最初にこの西の魔女を読んでいたら、このひとの小説にここまで嵌りこむことはなかったかもしれん。西の魔女よりエンジェル、裏庭より沼地、りかさんより沼地が気に入った。それはけして良し悪しの順序でなく、詳細というか、奥行きのようなものの順序で、より奥行きをもち、もしかすると長じたぶん雑然としているほうがわたしにはしっくりきた、ということです。
成長って言葉は難しいなあ、と思う。ふふ、このひとまだまだこどもだわ、とか、そういうのはもうまちがいなく勘違いだろうと。うっわーっ、おれ、あんときガキだったわー、とかいうのも。
こどもはこどもで完成していて、おとなはおとなで完成していて、というか、どの段階もそれはそれとして完成していて、みな立派にまっとうしているんだ、本来はそうだろうとときどき思う。長ずれば長ずるほど、整理がつかなくなることも増えるし、こう、鬱蒼としてくる。鬱蒼としてなんぼだろ、と思うけど、それでもってこどものころ見た風景を修正したり、否定したりはできないでしょうと。それで自分のこどもとか、よそのこどもとかを台無しにしちゃいかんな、親とか、よその爺さんばあさんを台無しにしちゃいかんな、とか、自分の魂に専念しろよと、梨木本読むと、きゅーっと締まる気がする。