夢のあと

yokkobukko2009-10-11

光、光、光にあふれたよろこびの世界から戻ってきて、いまだ余韻にひたっているようなあんばいです。秋の日のヴィヨロンならぬ、冬枯れた日にふきだまりにあつまった枯れ葉がかすかに立てる音のような、かりかり心のすみっこをひっかく風のようなリュートの音がずっと鳴っている、脳内で。
コンサート、無事におわりました。友人、家族、来場してくださったかたがたに感謝。お花やお菓子、心づくしに感謝。なにより「来てよかった」のひとことに胸がいっぱいになりました。個人としては歌い足りなかったとこ、しくじったとこ、反省点だらけだけど、聴いてくださったかたがたの感想や表情に、そうだ、これはもうそちらに差し上げたものなのだ、わたしががたがた言ってるのはちょっとちがうぞ、と気が付いた。「あまり楽しそうで、合唱団がうらやましかった」という声も耳にしたけど、音楽というのは、客席で聴くのが正方向。幽体離脱して客席で聴きたいと団員の誰かが言ってたけど、ほんとに同感です。
打ち上げではソロのかたがた、ひとりひとりとお話できて楽しかった。まさに役得。エヴァンゲリストさんとカウンターテナーさんはぴりりとスパイシーな小悪魔キャラで文字通りそのチャームでみな(主に女性陣)をとりこにしていました。イエスさんは意外にも、若々しい、野心あふれる青年だった。「女よ、これからは彼がおまえの息子だ」「弟子よ、これからは彼女がおまえの母だ」をあんなふうにしずかに歌ったかたと同一人物だろうか、というような。あそこはほんとすばらしくて、いつもほんとに感じ入って聴いています、と話した(な、ま、いき〜!!)ところ、素直に喜んでいらっしゃるようす。ものすごく難しいんだそうです、あそこは。若いころは歌えなかったとおっしゃっていた。驚くけれど、納得もする。ピラトさんは、実に落ち着いた、誠実にひとの話に耳を傾ける方で、奥深い印象を受けました。抜き差しならぬ複雑な力関係のはざまで、望まぬ選択へと追い込まれていくピラトというのは、イエスの次に苛めまくられてるひとであり、また、物理的にも精神的にもある意味いちばん近くで、イエスとやりとりしたひとでもあり、解釈しがいのあるおもしろい役どころなんだなー。うーむ、これはほかのかたのピラトも見てみたいと思った。
   
いま、日が変わって、いただいた花束と平和に眠る鳩ちゃんを眺めている。そしてリュート。残像は、リュート奏者の左手の長い長い親指。出番のないとき、坐っているときに目をしたに落とすなという、(きびしい)お達しがあって、とはいえ客席に目をやる勇気もなし、なんとなく行き場をなくしてたとこにオアシスが。リュートの背にまわされた美しい関節を熟視しておりました。