ほんとにげんまたいせん

先週末のことを書きます。
まず金曜、ひさしぶりに官邸前へ。いましろの「原発幻魔大戦」読んだら、やっぱ行かねば、という気になった。以前のようにものすごい人ではないけど、それなりに人は集まっている。激減ということはないと思う。警官隊は前よりもいる気がする。スピーカーが分散して設置してあって(かなり音悪かった)、マイクを持って意見するひとのスピーチを聴く、というのが新しい感じ。双葉町で依然避難所生活を送っているひと、家に帰れぬひとの話や、地元では反原発叫べないから東京に来て叫ぶという福島の人の話を聴く。腹割かれて内臓寒風にさらされるような、ひりひりする話で、つらい。もうすでにこれだけ不幸になったひとがいて(もともとじゃなく、持っていたものを失ったひとがですよ)、これだけ不幸を共有するひとがいて、どうしてただいまある状態を認めることさえ、できないのか、と思う。たぶん病気だ。
領土問題においても、オスプレイ問題においても、日本って認知障害なんじゃないかと思う。戦略上、問題がそこにあると認めるわけにいかないと言い訳してるけど、本当だろうかといつも思う。結局、つきつめてくといつも問題はアメリカとの関係におさまってく。自分の体を自分で治めていないと、自分の体の痛みを、認知する権限さえなくしてしまうのか。なんなんだ、この国は、と思ってしまう。でも石原氏や橋下氏や安部氏(ひでぶ)はいやだ。ほんとにいやだ。わがまま言うな、とか言われても、いやだー。だって、げんまたいせんだよ、これじゃ、ほんとに。
備考
安部氏についてはもうなんも言いたくないけど、石原氏や橋下氏がいやなのは、下品だから、とか、そんなじゃないです。下品だって、なりふりかまわず、だってぜんぜんいいと思う。そういうのは時によったら好きなありさまでさえある(ところで品性がどうしたとか、そういうことを俎上に載せるひと多いですね、それを裁いてどうするのかな。不毛な行為だす。でもときに不毛なこと、したくなるんですけどねー、不毛だす、なんか自分がきずつくし、でも野蛮、ってなると、また考えるなー)わたしはマッチョになりたくない。誇りは持ちたかったけど、核兵器が誇りだというなら、誇り、持たなくていいです。お国のために死なないで、です。究極、ひとを生かすためにお国が死んで、なにが悪いのか、とも思うのです。お国のためにお国が散って難民、というのはあるけど、民を生かすために国が散った、それによって難民になったという例が、これまでにあったか、あったとすれば、その難民は国を恨んだか、ひとを恨んだか、誇りを失ったか、知りたいですね。