イヴ・サンローラン

歳とるとともにマラソン好きになったように、ドキュメンタリーが好きになった。それはフィクションでなく現実とか真実とか、そういうのが知りたくなって、ってことじゃなく(!)て、誰かのバイヤス、誰かのおもいっきり偏った、はっきりとした見方を通して、現実を見たくなったってこと。そういうのが楽しくなってきた。それは翻訳本を読むのも似てるかも。亀山ドストエフスキーとか。
ピエール・ベルジェとサンローランというカップルについては、ほとんどなんも知らんかった。去年かおととしクリスティーズのオークションの記事読んだときはじめて知ったくらいだ。そのときも、PB、故YSLと公私とものパートナーと聞いてにやあっと薄汚い笑みを浮かべたくらいで、ふたりのコレクションの売却についても、なんで売っちゃうのか疑問にも思わなかった。お金が要るんだろうなとか、遺産のかわりだろうな、くらいにしか思わなかった。
PBはサンローランが二十歳かそこらのころに出会って、恋に落ちてからずっと、亡くなるまで人生をともにしたひとだ。詩人で実業家、コクトーともミッテランともともだち、なんか不思議。長く人生ともにするばかりがえらいわけじゃないだろう、けど、そこには聞いてみるだけの話がある。とりわけ、こどもを持たないわたしには、彼がなんというか同朋のように感じられ(勝手な思い込みだけど)、長くつれ添ったパートナーに先立たれるという設定に、これは同情といっていいだろうけど、自分が死ぬこととか、Bが死ぬこととか考えてしまって、のっけからcompassionでこううぐっと嗚咽しそうになる。PBは涙ひとつ落とさないのに。
物は物であって、魂は存在しない、それは自らとYSLのあいだにたしかにあったなにがしかの跡形でしかないという理性的なものの見方と、そうした美術品はこどものいない自分たちにとっては、こどものようなものかもしれないという言葉は相反するようなんだけど、みょうに同意できてしまう。死んだのが自分のほうだったら、YSLはぜったいこれらのものものを売ったりはしないだろう、とPBが分析してた。面白いな。最初からではあるまいが、その溶け合わない役割分担というか、その対峙のしかたが、非常に。
明け方か黄昏かもうわからぬ、立ちこめてくる霧を待つ老人の姿、そんなシーンはないんだけど。そうか山猫だ。あのバート・ランカスター(そだ、そでした!)に重なる。最後まで自分を手放さない、失わないで、なんだかわけわからないものにとりまかれいく、そういう生き方、死に方。