小沢健二をみる

yokkobukko2010-06-10

いよいよオザワの日。NHKホール。
原宿駅の改札で会うの二年ぶりの友人のWさんと落ち合う。おひさしぶりでございます。二年ぶりでいきなりコンサートというのもなんか変な感じだけど、おたがい歳取りましたね、実際。たがいのオザワ体験、想い出話交わす。といっても、わたしはコンサートは一度も見たことない。たしか92年の五月に神戸にクラブのイベントみたいの見にいったのが最初で最後の生小沢だった。フリッパーズの解散直後で、ギター弾くでもなく、呪詛を吐きながらレコードをまわしていた。なんか想像に違わぬものすごくひねくれたセンシティブな青年だった。今思えばなんかよっぽどむしのいどころの悪い日だったのかもしれない。その後テレビで踊ったりする小沢にびっくり仰天し、そののちのコンサートは全部争奪戦に負けた。
ホール前、入場待ちの行列で義妹と遭遇。
いよいよ時間来て、楽器がちょろんと鳴ったら、客席総立。もう立つんですか。観客の緊張と興奮、びりびりしていて、なんでしょうか、こちらにも伝染する。しきりに目をこする隣りのひとは泣いているのかと思ったが、双眼鏡をいじっているのだった。実際三階奥から見る小沢は豆粒。黒髪はなかば濡れた感じで、へんてこな踊りにあわせてぺったんぺったん跳ねている。禿げてはいない。痩せている。がりがりののっぽさんだ。でぶったというのはガセネタだったらしい。
楽曲は懐かしい曲を惜しみなく相当数やってた。「天気読み」「麝香」が非常に印象的なアレンジ。かっこいい。後者はあーあった、あったくらいにしか覚えてない曲で、eclecticってアルバムの存在を忘れていたくらいだ。「ブギーバック」ボーズ部分の観客大合唱には鳥肌。きっと小沢も鳥肌たったろう。「愛し愛されて生きるのさ」の語り。当時は恥ずかしかった。あれは十数年後の今にむかって話していたのか!というようなこっちに届いた!という感じした。
いずれにせよ、かつての曲のなかにでてくる語りも、詞もまさにタイムマシンで、夏への扉を通って、こちらへ届いた感じだった。
それだけに疑問なのは、ほんとに疑問なのは、なんで、歌詞はあれだけ注意深いのに、曲間の朗読はだらだらしているのか?(考えてみると後期の歌詞はどれもけっこうだらだらしている、今回の新曲も)ああしてあまり推敲しないで、言葉をだらだら出るままにする、っていうに、それなりの意味があると思ってるにちがいない。だらだらと平面的、連続的、芋づる的にわりと普通の、キラリと光るところのほとんどない(!)思考が展開される曲間の朗読は、なにに近いかといえば、お経かなあ。ありがたいこと言ってんのかもしれないけど、眠いなあ、と思っていると、ちょっとリズミカルなとこがあって、あっと思うという・・・いや、これは最後までよくわからなかった。
新曲は三曲。一曲はワルツ、いちごと神さまがでてくる。次は音頭(ちょうどBと小沢は大瀧さんだよね、とか話をしていたとこで驚いた)三曲目がとてもよかった。バンドの音もしぶく技巧的で安心感のあるライブだった。ヒックスヴィルには中森さんが欠けていて淋しいが、これ以上ギターが増えてもバランスが悪いのかもしれない。ファンダンゴって映画ありましたが、メキシコっぽい村の広場に色のついた豆電球がずらずらぶらさげてあって、まん中で生バンドがダンスミュージックを演奏していて、という風景が思い浮かんだ。村祭り。時間がきて、祭が終わって、根なし草と空き瓶なんかが転がってて「いちょう並木」と「流星ビバップ」が流れてる。そういう余韻。