鈴木雅明のマタイ受難曲

yokkobukko2010-04-03

バッハ・コレギウム・ジャパンマタイ受難曲を聴きに、埼玉へ行ってきました。考えてみると、歌ってるくせに、こうちゃんと腰据えてぶっつづけで聴くのははじめて。寝ちゃうかもと思ったが、いや、そんなことはなかったどころか、徐々に集中高まり、興奮きわまりました。
マタイ受難曲というのは、「シオンの娘」と「信じる魂」という大きな楽団がふたつ、舞台のうえに存在していて、それがまあ対話するように音楽を奏であうのですが、このふたつの呼応を指揮者鈴木氏がひとりで制御する、その支配しかたがもうほぼ完全な制御で、合唱はともかく、ソロの細かいうねりや息づかいにいたるとこまで、あの細かい指づかいで糸を引くみたいに支配していて、気持ちいいくらいで、そのうちに無数の細い光る糸が彼の指先に集まっているのが、そして放射していくのが見えてきた。まさにおおおという瞬間でここまで集中できてんだ、と思った。いや、すごい指揮でした。
エヴァンゲリストからレシタチーボ、コーラス、コラールとその集中が切れることはなく、一曲いっきょくに区切られるということもなく、まさにひとつの曲として緊張が続いていく。鈴木版マタイは、第一楽団を中心に滑車していく物語をいちいちストップさせて第二グループが時間的空間的に少し離れたところからコメントを加えるというような構図ではなく、ふたつのグループが拍車をかけあってひとつの物語の凝縮し鍛練し、意味や内容を増幅していく感じ。
コラールが箸休めになるということはもはやなく、第一部ではコラールが逆に拍車の役割、拍車というか、蒸気機関に勢いよくくべられる石炭か薪のような役割をしている。ものすごく速い。ぐわーこれは三時間かからないんでは、ってくらい速い。そんでどんどん興奮してく第一部。興味深いのは、コラールとは対照的にのろいイエスのソロ。おそろしくのろい、とりわけゲツセマネで覚悟を決めるまでのイエスは、まるでスローモーション。八ミリカメラ撮るとき、スローモーションって逆に早回しで撮るでしょう、そういうの思い出した、つまりものすごい凝縮度が高い、どんどんスローになる、どんどん濃密になる、という止まっちゃうんじゃないのか、というくらいのろくなっていくイエスの動き。これを凝視する鈴木さんの目がどんどん細かくなっていくってことなんだろう、こちらもその濃密なものに呑みこまれてまみれていく。一部ラストのコラールはやっぱすごい。第二部がまたぜんぜん新たな展開、新たな振り方で、静かな緊張、ピラトの館の場面へとこんどは徐々に徐々に緊張が増していく。すっかり魅了されました。イエスが絶命して、雷がとどろく場面がクライマックス、そこから、65曲目のバスのアリアまで、ほんとに引き込まれてた。このバスのアリアで、わたしのなかではマタイ受難曲は終わる。あとはアンコールというか、余韻。
いずれにせよ、ぎゅうっと凝縮した解釈のかたまりを聴かせてもらいました。