好ましい退屈

粘菌の話もした

昼前、本を借りにやってきた義弟と、すこししゃべった。このひとは映画を撮っているんだけど、いつも行き詰まっていて、あるいはますます行き詰まっていて、苦しんでいる。エンターテインメントを撮りたいんです、と言ったので、ちょっと驚いた。エリセとかオリベイラを嗜好するひとの言うエンターテインメントってどんなんだろうかと。
中原昌也の映画評とスピルバーグの映画話に及んで、退屈ってネガティブなことばかりじゃないんじゃないか、と話しながら、そのときは、どうもうまく説明できなかったけど、スピルバーグの映画って死ぬほど退屈なんだけど、それがきわまって音のない境界みたいなとこに到達するときがあって、達したな、というときに、感動するんだ、とあとで思った。退屈しているときって、観客としての精神状態はうまくいってないかもしれないけど、相当にまじめに自分と対峙しているからかな。これは見た、という手ごたえがある(ときもある)。そういう質の退屈はいいんじゃないの、と思ったんだけど、うまく言葉にならなかったな。
ついでに梨木さんの本をいろいろ持ってきてもらった。粘菌が愛したひとのかたちに擬態する話があるとか聞いて、なにかしらが語りかけてくるんだけど、なんだっけかとうぎうぎしたけど、そうだ、「蟲師」にそんな話あったといまさら思い出した。