日本語が亡びるとき

yokkobukko2009-01-19

読了。つ、つかれた。挑発的論調が痛快で楽しく読めているときもあったが、うだうだ長くもあり、感想は二転三転して、最終的には、なんつーか、非常に常識的な本だったなあ〜、というとこに落ち着く。
いまこそ<読まれるべき言葉>を読める国民を育てるべきダ!(!がみっつくらい要る感じ)というのが水村さんの主張。ここで<読まれるべき言葉>ってのは、もちろん日本語のことで、どういうそれかというと、世界基準に通用する中身を持った日本文学。じゃ世界基準ってのは、どういのかというと、世界のどこかの片隅でひとりの読者が読んで、あ、これ、わたしのことだ、と感じられる普遍性を持っているということ・・・で、だれがそれを書くかというと、普遍語(いまであれば英語)に深く通じ、ほんものの叡智に続く道に生でアクセスでき、それと日本語のあいだを翻訳というかたちで往来できるひとが書く。そういうひとこそが日本語をたたきあげ、鍛えあげることができる・・・みたいな・・・ユートピア論が展開していく。ひどく口下手ではあるけど、すっごくまっとうなことを言っているな、水村さん、と思う。しかし、そういうひとを、ちょっと遠くから見ているような感じなのだった。ちょっと遠まき、それでいて、さして自分を卑怯だとも思わないから、なんかひっかかるんだろうな。
それとたぶん、日本文学がめざすべき、その、世界基準でいうところの本物って、いま、どんなものなのか、ぴんとこないんだな。アリストテレスみたいな、孔子みたいな、そんな本、いまあんのか、という。
それと、普遍語自体が変化、というか進化する事実(つまり普遍語は、広く普及し、辺境で変化していく)が、水村さんの歴史観にあまり影響を与えてないのが、気になるんだよな。