赤い風船の旅

渋谷でレッドバルーン見る。夕方の回、K原君が見にいくと言ってたので、映画館で待ち伏せる。渋谷はお祭りの前夜なのかな。通りにずらずらと提灯が連なっている。年季のはいった、渋い生成りの提灯。立派なお神輿もスタンバってる。
さてホウ・シャオシェンホウ・シャオシェンって、Hou Hsiao Hsienって表記するんだな、なんか発音難しそう)、このひとの映画はぜんぜん気構えなくていいから好きだ。それでいて頭を使う映画ではあるんだけど、強制されるような、せかされるような感じはひとつもなくて、ただ、つらつらとした連想を呼ぶとでもいうのか。一見、気まぐれに、ひょいひょいと軽く日常のシーンをつまみあげて、安直に繋いだかのようでいて、つままれなかった日常、物語では紹介されなかった、スクリーン上には映らなかった日常に、しっかりとした存在感がある。たとえば、ここには紹介されない話、なんでソンさんは中国人なのかとか、なんでパリにいるのかとか、過去の話であれば、離婚とか、どうして娘と離れ離れになったのかとか、それよりもずっとずっと昔の話とか、おじいさんのこととか、おじいさんとの関係とか、どうして人形劇なのかとか、そういうことを観客は自然に、つらつらと連想している。ピックアップされたシーンのあいだに、ほんとにしっかりとした連なり、営みが流れているという安心感、どこでも見てくださいよという、豊かさ、余裕。
普通のおばさんに徹したビノシュがよかった。昔ホームステイしたときのホストファミリーのおばちゃん思い出した。オープンに内輪もめをするとことか。ド派手に泣いたり怒ったりして、と思えばおもむろにこっちむいて、普通の話ししたり、こっちは余所者でもあり、居心地悪いし、もう内心おろおろしてるんだけど。それで思い出したけど、学校はけて迎えの車に乗ったら、そこんちの息子も乗ってて、いきなり、別れた旦那が今月の生活費をよこさないから、この足で息子とふたり相手の自宅にカネを取りにいくとか言って、つきあわされたことあった。ええと、あたしはどうすればいいんだろ、とか、おろおろしたなあ。道中、おばちゃんずっと興奮してて悪態つきまくっていたが、息子はやけに落ち着いてたっけなあ。ああいうとき、アジア人はポーカーフェイスにならざるをえません。