読書のゆくえ

何日か前に須賀敦子のことを書いたけれど、やはり一向に爽やかな気分にはなれない。つきつめて言えば、言ってしまえば、須賀さんには信仰があり、わたしにはないからだと思う。そして須賀さんを読んでいると、「信仰を持つ」ということが、厳しく、しんどいことに思える。見失わないでいるための精進が楽じゃない、というか。そしてその楽じゃないということが、たぶんわたしにはショックなのだ。それで読んでいるとどんどんしんどくなってくる。
聖書はここ数年、もとはといえば翻訳仕事の関係から、わりとまじめに、じっくり読んでいる。あたりまえだけど、尽きることのない物語の泉であり、詩があり、哲学があり(厭世ものまであり)、歴史があり、三面記事まであり、まあ、これ一冊あれば、たいてい飽きることはないだろうという読み応えのある本なのだけど、いまだ自らのうちには神さまは見つからない。
須賀さんの翻訳は、屈託なく好きだ。たとえば「供述によるとペレイラは」なんて大好きだ。タブッキがそうなのか、須賀さんがそうなのか、ひどくあっさりしている。まず句読点の位置が好きだ。こういうのは本人のしゃべる調子、息継ぎ、息遣いとぴったりあっていたりする。須賀さんの朗読、タブッキの朗読、どこかにそんな音源あるなら、ぜひとも聴いてみたい。