オザケンコンサート

チケットの争奪戦とその価格の高さに、なに?外タレきどり?来日コンサートかよと、相当に心離れかけてたんだけど、おもしろかった。なんでしょねー、むかーし二十代のころに吉田拓郎コンサートとかテレビで見て、客席のおじさんおばさんに、なに?それはノスタルジー?みたいな否定的な気分になったものだけど、もしかしてあれか、あの姿になってんのか、わたし、と不安になりながらも、いや、あれはノスタルジーじゃなかったんだなーと分かったりもして、いよいよ中年臭い。非ノスタルジー、つまり今納得してる。自分のついたうなずきの回数は半端じゃなかった。オザケンのモノローグはもはやタレントのコンサートの散文的おしゃべりとかでなく、ポエトリーリーディングとかでもなく、間違いなくエンケンの世間話に接近していた。英語のbelieve、believerはアメリカではポジティブな語なのに、日本語の「信じる」「信者」はなんで気持ち悪い感じがするんだろうって話おもしろかったな。「小走り」の話も。結論が、というより、言葉にこだわって考えていく時間が楽しかった。音楽はおもしろかったか、なんかもうほとんど覚えていない。
あと拓郎コンサートとちがうのは、たとえばあれは森高がいま、わたしがおばさんになってもをコンサートで歌って、みんなほんとに似合う歳になったわねーと語るというかいう図に近いんだけど、オザケンコンサートの場合は、おーわしらももう歳じゃなあ、もうすぐあの世に行きますわいみたいな気分になってることなんだよ。共感がバーチャル。中年通りこして、晩年。あらためて思ったけど、オザケンの詞っておじいさんになって死ぬときに、つれに看取られるみたいの多いんですよ。なにあれは男の夢?
ああ、それに比べるとライダーズの誰が先に死ぬかは、かっこいい。