スイートリトルライズ

妹のとこから姑経由でやってきた原作本。映画とだいぶ印象がちがう。まず映画であんなにエキセントリックだった瑠璃子さんが、普通だ。普通といえばいいのか、なにを言っているのか意味がわかる、言葉の通じるひとだ。映画の瑠璃子さんは、より極端なほうへ寄せるとオノヨーコとも置換可能で、部屋にとじこもって爆音でゲームやってるジョンレノンのとなりにやってきて、「どうしてCDかけてゲームやっているの?」と聴きながら、その横に腰下ろし「この家には恋が足りないと思うの」と言いだす図想像し、こえー、こえー、という感じだが、原作の瑠璃子は伴侶との距離をはかっているというか模索しているのが理解できるし、彼女が聡にむかって大事だと主張することに賛成だし、ものごとの感じかたに、実に、共感する。
理想的な夫婦がひと皮剥ぐとたがいに愛人がいてというような告発ではなくて、じゃあ、どういう立ち位置がいいんだろう、というか、どういうポジションがひとつ屋根の下でともに生きていくのにいいんだ、ちょうどいいんだろう、というのを模索する話。
それぞれはそれぞれの愛人とは話も言葉も通じるんだけど、伴侶とは通じない。通じないんだけど、ともに生きていくのはこっちなんだ。話や言葉が通じるってのが、たぶん瑠璃子にとっては、いや聡にとっても、誰にとってもわりと表層というか、根源的な個に影響しないんだと思う。けっきょく死ぬまでかかえていくのは個人の孤独なんだけど、いくら趣味があっても、言葉が通じ合っても、体が合っても、心がやすらいでも、それをおぎなえないし、ついにはいたたまれない。それなら伴侶はどうなんだ、という。ぎゅっと抱きしめあう距離で、つきつめあっては終わってしまうし、いっしょにいられない、離れすぎると他人でしょ、という、ちょうど死ぬまでいっしょにいられる距離を真剣に測っている、模索している話。
なんでそのひとなんだろう。ということも考えさせられる。
帰る家は必須、ということだろうか、ということも。家はキーワードなのかもな。
江國香織、かなり苦手だと思ってたけど、急に話があった、みたいな感じだ。