旅後記

さっき、マドリッドのバラハス空港で飛行機が落ちたらしい。ほんの一日前に居た空港だから、因縁のようなものを感じてしまう。犠牲になった人々のご冥福を祈る。

さて旅についての細かいことは徐々にアップしていくとして、とりあえずいま思っていることを書いておく。ヨーロッパを旅するのに、宗教にかかわらずに旅するのは不可能だろう。その場合に、信者でもない自分がいったいどういうつもりでそこに居るか、自分の立場はなんなのかを、考えないではいられない。で、結局いつもこれといった答えの出ないまま過ごしてしまう。でも、今回はある意味で「そうかも」という答えが出たと思う。ちなみに、このたびの旅の目的は(というかこのたびも)サント・ドミンゴ・デ・シロスでロマネスクの修道院を訪ね、さらに、なるべく多くの礼拝に参加してグレゴリオ聖歌を聴く、というもの。礼拝は、早朝6時から朝課、賛課(ラウデース)、昼はミサか、たぶん六時課、晩課(ヴェスペレ)、終課、四日間の滞在で、だいたい全ての礼拝に参加した。
わたしはこれまで、宗教というのは、どうにも受け入れ難い悲惨であったり、不当であったりする運命を、なんとか呑みこむ、なんとか解釈するためのツールのように考えていたんだけど、今回、それはそうかもしれないけど、もう少しちがった面もあるのじゃないか、と思った。それは、もうすぐ死ぬぞというときに、自分はひとりじゃない、と本気で信じれるかどうか、というような。そのときに自分のそばにかならず居てくれる者、それが神さまなんだろう。それを信じるのはなかなかに難しい。詩篇にも、前半、打ち捨てられた境遇への恨み言がえんえん続き、あるとき、突然に神を発見する、みたいな詩がいっぱいある。あるときというのは、だいたい死のほんの一瞬前か、その瞬間だ。

朝課、早朝といってもサマータイムでもあり、まだ夜も明けておらず、西の空には月も輝いている。さすがに集ったのは数人。しかし、まだあかりもつかぬ礼拝堂で、跪いて、おでこを組んだ両手に打ちつけるようにして祈りを捧げているまだまだ若い男性や、真っ暗な小アプシスのマリア像の前で、やはり組んだ指におでこつんのめらせるようにして真剣に祈る修道士さんを見て、そこにあるものを、たしかに重んじる気持ちが涌いてくる。いちばん近いのはrespectという言葉ではなかろうか。そうか、わたしは信者ではないけれど、それを、つまり信仰心をrespectしているんだ、と思った。