最終列車は出てしまったか

 f:id:yokkobukko:20210910220917j:plain

 今日、関東で、とうとう、劇場版「鬼滅の刃」無限列車編の上映が終了した。

 長かった。無限列車の旅。個人的には十か月。80回目の乗車にておわり。

 都内のほとんどの映画館が7月に終映を迎えるなか、本厚木の「あつぎのえいがかんkiki」だけが、しぶとく上映してくれてたけど、それも今日でおしまい。

 よい映画館だった。その名の通り持ち物(音響機器)が個性的で、素晴らしかった。1、3、2と全スクリーンで上映してくれたのも、なかなか乙だった。

 1の驚音上映は、最高だった。この十か月、極音、ドルビー、豪音、いろんな音を楽しんだけど、ここが一番迫力あった。霹靂一閃六連の、客席の後ろに音が回りこむ感じはすごかった。笑った。

    f:id:yokkobukko:20210910221312j:plain

   f:id:yokkobukko:20210910221538j:plain

 ただ最後の一週間でかけたスクリーン2の音も捨てがたい、というか、声、フォーリー、劇伴、音響全般のバランスでみたら1より優れてたんじゃないかと思う。一見すると、他のふたつのスクリーンより小さく、脇にあの音響機器タワーがない。なーんだ、ここは普通の映画館か、と、油断させといて、どかーんと迫力低音。中低域の幅もある。とにかくほかの映画館では聞こえない音まできれいに違和感なく鳴っていて、何回も聞きたくなる音だった。

 本厚木という駅は、箱根に行く途中にあるんで、知ってはいたんだけど、降りたことはなかった。何回行ったかな~ 何年か経って振り返ると、2021年の8月は本厚木で過ごした、ってことになるんだろうなあ。楽しかったです。

 今日は上映終わって、拍手が起こった。(たまーに映画終わって拍手起こることってありますよね。わざとらしくでなく、自然と起こることありますね)なんかその拍手にもぐっときてしまって、ああ、終わったなあ、なんかいろいろあったー、という気持ちになり、私も拍手に加わりました(ずいぶんエゴイスティックな拍手だから、ほかの方々に怒られるかもだけど)。

 それにしても今日は集中できなかったなあ。ちょっと自分でも笑ってしまうんだけど。ああ、今日で煉獄さん見納めか、と思ったら、ほんと一瞬いっしゅんが惜しくて、泣きたいけど、泣いてる場合じゃない、おぼれたいけど、作画の一枚いちまいも見逃したくない、クリアーでいたい、という具合で、自分が15人から20人、なんなら百人くらいに分裂してく感じで(はたらく細胞の赤血球みたいに)、統合できなくなってた。

 こうなってしまうと、なにかを書くなりして、ばらばらになった子たちを集めてこないと、自分が取り戻せないのな。

アニメを見る日々

                        f:id:yokkobukko:20210825143812j:plain 

    最近、めちゃくちゃアニメを見ている。

 もともと見ない人より見る方だったが、最近はタガが外れている。

 ネトフリが多い。去年から見たシリーズを思いつくままあげていくと、鬼滅の刃アルドノアゼロ空の境界、オッドタクシー、呪術廻戦、ゴールデンカムイBEASTARSゴジラS.Pシンギュラポイント、小林さんちのメイドラゴン、スペースダンディ、カウボーイビバップ、BNA、7SEEDS、などなど、一回だけ見て、ほったらかしというのもあるけど、だいたい真剣に見ている。

 気に入ったら何度でも最初に戻って繰り返し通しで見るので(これは小説でも漫画でもそうなんですけど)、鬼滅と金カムとBEASTARSは、もはや何周してるのかわからない。

 そうだ、最近、家人と「たまこまーけっと」も見直したっけ。

 とにかく、もはやそう短くもない人生を振り返っても、こんなにアニメを見まくっている時期はない。そして、もはやそんなに長くは残っていそうにない余生も、アニメに費やされそうな予感。

 アニメーション制作会社にも興味を持つようになった。えらいもんで、何度も何度も見てると、だんだんその会社の癖のようなものがわかってくる……三つ子の魂じゃないけど。

 ufotableについてはこのブログに何度も書きなぐっている。とにかく語りたいことしかない。はっきりいって劇場版『鬼滅の刃』無限列車編に私の生活スタイルはほんろうされまくっている。このごろはさすがに激減した上映館を求め、あれほど出不精だった私が関東のいったこともない町へと赴いている。そのうちほんとに上映館なくなったら、徳島にも行きかねない。俗にいう遠征だが、躊躇なくやりそうだ。課金のハードルもとっくに越えている。

 私にとってufotableは鬼滅。

 鬼滅の画はとにかく、ほんとよく動くし、見えているその動きにストレスを感じない。感じたことがない。(これはわたし個人にとっては、すごいことなんです、イメージ通りに画が動く、イメージ以上に画が動くってのは! 高校時代にアニメを見るのをやめたのは、そのストレスからもあったと思うので)よくコマ送りで一コマ一コマ確認するけど、異常なくらい撮影が手を加えている。もう異常なくらい細かい目配りがあり、地味な作業がいちいち丁寧だ。流したときストレスがないのは、だからかなと。だから、そこにどストレートな演出が驚異的にハマるんだなと。

 実際、鬼滅には思わせぶりな演出とか、ブラフがない。いっさいない。描けるものは描いてあり、表現できるものはみな可視化されている。それがとにかくかっこいい。かっこよすぎて毎回泣いてしまう。

  

 で、鬼滅を皮切りに、玉突き的に気になるアニメをどんどん見ていった。

 おかげで、あら、わたしはここのアニメかなり好みかもーと、最近気づいたのが、orange。

 というか、BEASTARSが死ぬほど好き。もう結局それに尽きる。(宝石の国、本編は見てないけど、昔ティザーに一目ぼれして、ヘビロテしたなあと、いまさら思い出し、なんで本編観てないのか、と考えてみた。あのころはまだサブスクに入ってなかったんだなーと、ここ数年でがらりと変わりましたよね、アニメ見る環境が)。

   BEASTARSは、原画、3DCGI、色彩設計、演出、撮影、配役、どれもドンピシャにハマっている。劇伴も(たしか神前さん)。鬼滅に対するufotableもそうだけど、原作へのアプローチが誠実で、演出にクリエイターの灰汁が出ないのがいいんだと思う。

 どこからどこまでorangeの仕事なのか、まだちゃんとクレジットを確認してないんだけど(小さい!文字が小さすぎる!!)。撮影の仕事が渋い。すごいかっこいい。コマ送りしたいシーンいくつもある。レゴシとハルちゃんの出会いのシーンとか死神アドラーの舞台とか。

  orangeがボンズと組んだゴジラS.Pも恐ろしいくらい面白かった。ボンズは悪い意味でサンライズの匂いがする、というか、キザたらしい思わせぶりな演出に、時々、うぎゃ(なんか恥ずかしい)ってなるのだが、これは素直に楽しかった。円城塔ボンズのキザさと相性良いのかな。

f:id:yokkobukko:20210825154746j:plain

 MAPPAはこれがどう!というほど見ていない。いや、実のところ、意外と見てるけど、監督の味によってぜんぜん違うものをつくるような印象ですよね。イクニ作品、湯浅作品。片淵作品、ああ、あれもこれもMAPPAか、と。いや、湯浅さんはないのか、マッドハウスとごちゃごちゃになってるんだな。

 マッドハウスは作品リスト眺めるだでもアニメ界の歴史がわかりますよね。片淵さんのウェブアニメ雑誌の連載を読んで、なにかしみじみと昔と今を橋渡している制作会社なんだなと。4℃も。

 ゴールデンカムイgenoスタジオも気になる。伊藤計劃虐殺器官きっかけで生まれた会社なのかあ。全然しらん会社だったけど、金カムの質感と色彩設計、すごいセンスだなあ。

 制作会社についていろいろ知りたいなあ。

 シンエヴァのパンフレットに出てくる制作会社の系図とか地図とか作ってもらえると、いろいろわかってうれしいかも。

 個人的には好きなテイスト、嫌いなテイストあるけど、とにかくアニメーションの仕事について偏見なく詳しく知りたい。いま、とにかくそういう気分。

 

 

 

  

 

夜明けの光とユーフォーテーブル

           f:id:yokkobukko:20210302162842j:plain

 昨年の11月から憑かれたように劇場版『鬼滅の刃~無限列車編』に通い続けている。

 のっけの風にそよぐ杉林のシーンから、エンドロール末のあの画まで、劇伴含め、一シーンも逃さず、映画一本まるまる脳内で再生できるようになれないか、とかなり本気で考えている。

 全編はムリでも、せめて終盤、魘夢との死闘を経てぼろぼろになった炭治郎が空を見上げて「夜明けが近づいている」とつぶやくところから、炭治郎がおのれの左胸をぎゅっと右手で掴む本編最後のカットまでは、いつでも再生できるようになりたいと思っている。

 ほんとかな、いや、ちょっと嘘かも。いろいろ言い訳しているだけで、まだまだ満たされない。もっともっと見たい、ってただそれだけなんだと思う。

 

 ところで「夜明けが近づいている」と炭治郎がつぶやいてから、実際に夜が明けるまでに、物語の中で経過した時間は、いったいどのくらいだろう? 小一時間? 毎朝四時半に起床している私の感覚からすると、あの白んだ東雲の様相は、日の出まで20分、あるかないかというところだ。そして上映時間も、だいたいそのくらいだと思う。

 ・・・20分!?

 猗窩座と煉獄のあいだで繰り広げられる、あの戦いが、たった20分かそこらの出来事なのか!? とあらためて衝撃受ける。

 先日オンライン鬼滅祭で、テレビシリーズと劇場版から幾つかのカットの原画が紹介されるのを見た。数秒のカットに100から300枚強。12話の霹靂一閃のカットは7秒で376枚(1秒53枚?)だった。カットによって濃淡あるだろうし、正確なカット数もわからないので、不毛な計算になってしまうが、それでも煉獄猗窩座戦のあの濃厚さからして、20分(1200秒)だと原画6万枚以上になるのではないか? 

 なにが言いたいんだよ、って自分でも腹立ってきたけど、もうちょっとがんばってみます。

 たとえば我々が、日頃、なにかしらの出来事を知覚し経験するとき、十分の一秒、百分の一秒単位でその推移を捉えているだろうか? 脳のどこかが拡張しているとか、特殊な能力がある場合を除けば、我々が全感覚を開放した状態で、なにかを経験しきることはほとんどない、と思う。ないとは言わない。あるとすれば、その時間は一生分の時間に匹敵するほど、含蓄のある濃密なもの(たとえば邯鄲の夢のような)になり得るだろう。

 ufotableのアニメーションはそういう時間をつくろうとしてるんじゃないか、猗窩座と煉獄のあいだで刹那に共有される時間は、そういう、人生に匹敵するほど濃密な時間なんじゃないか、と言いたいのだ、私は、たぶん。

 とすれば、たかが20回30回見たくらいで、満足できないのは当然という気がしてくる。←自分を正当化しようとしています(^.^)

                 劇場版『鬼滅の刃』パンフレットより

                      f:id:yokkobukko:20210302165432j:plain

  ufotableの演出がニクいのは、猗窩座と煉獄が共有するその内なる時間と並行して、朝ぼらけの空模様という外界の時間の推移を描いてくるところだ。

 つまり画面前景では、猗窩座煉獄戦が白熱しているが、その背景では炭治郎が「夜明けが近づいている」とつぶやいて以降もずっと、地上の熱戦なんてまるで無関係というふうに、坦々と朝ぼらけが進行しているのである! 

 最初に日の到来を感知するのは猗窩座だ。その仄暗く沈む瞳の下部が、明け初める空を映して青く光る。

 「夜が明ける!! ここには陽光が差す・・・逃げなければ!!」

 この夜、この戦いにおいて初めて猗窩座の集中が切れる瞬間だ。その首には煉獄渾身の一撃が食い込む。右腕は煉獄のみぞおちを貫いている。とどめを刺そうと放った左拳は手首を煉獄にがっちり掴まれている。にわかに焦り、身を剥がそうとする猗窩座と、それを取り押さえる煉獄の雄叫びがぶつかりあって、あたりに大砲のように轟きわたる。組み合うふたりを捉えるカメラがぐるりとパーンする。翻る煉獄の羽織の縁、髪、猗窩座のまつげ、首に食い込む刃の上に暁の光が走る。この描写!

 硬直していた時間がにわかに動きだす。

 「煉獄さんになんといわれようと、ここでやらなきゃ」刀を拾って駆け出す炭治郎の躍動する髪の先が赤い光に縁どられる。脱線した車両の腹が朝日に輝きはじめる、我に返り、猗窩座に飛びかからんとする伊之助の輪郭を、いま、まさに生まれ出ようとする日の光が縁取る。

 なんという光。

 朝の光はめくるめく表情を変える。最初、山間に開けたその荒野にようやく届いた光は、ものものの輪郭を赤く縁取ったのちに、黄金色になり、きらきらと白色の輝きとなって、あたりに広がっていく。

 戦いは猗窩座の逃走によって、唐突に、強引に、野蛮な形で終わりを迎える。ともに武の道を究めよう、至高の領域を目指そう、と圧倒的な強さでもって煉獄を誘った猗窩座の言葉も、朝の光のなかでしらじらと色褪せていく。煉獄の腹に残された、猗窩座のちぎれた腕も、日の光の中で塵となって消え失せる。

 なんという光。

 『鬼滅の刃』というアニメ作品には、実に多くの夜明けが描かれる。

 お堂の鬼との戦い明け、最終選別明け、沼の鬼との戦い明け、矢琶羽と朱紗丸との戦い明け、那田蜘蛛山の戦い明け、そしてこのたびの夜明け・・・そのそれぞれをufotableは実に丁寧に描いている。原作を読めば、炭治郎がこの先にもいくつもの印象的な夜明けを迎えることがわかる。ただufotableは、原作ではわりとあっさり描かれた夜明けをも、印象強めに描いてくる。『鬼滅の刃』にとって「夜明け」が重要なファクターだと解釈して意識的にあえて強めに演出しているのだと思う。

 そのうえで今日のこの夜明けは特別だ。煉獄にとっての最後の夜明けであり、炭治郎がのちに繰り返し思い出す夜明けなのだ。だからして、この特別な夜明けの光の演出には、やはりもってufotableのなみなみならぬ読み込みの深さと思い入れを、ひしひしと感じる。

 とりわけしびれるのは、煉獄さんが「竈門少年、猪頭少年、黄色い少年、もっともっと成長しろ、そして今度は・・・」とここまで語ったこの瞬間の光の変化だ。ほんのわずかに、しかし確かに明るさが増す。ほんと、わずかに。それは自然がたまたま人の情動にシンクロしてしまっただけなんです、って感じの演出になっている。そして煉獄さんの「君たちが鬼殺隊を支える柱となるのだ、俺は信じる、君たちを信じる」という言葉が続く。

 なんという光。

 この朝の光は、この物語の結末、最終決戦明けのあの朝をも照らしている。

 万一、ここで、アニメーション制作が終わることになっても(終わりませんが!)、悔いはなし、という気迫でもって描かれた朝だと思う。

 

 うーむ、

 またしても胸いっぱいになりました。

 結局、毎回、ufotable、すごくないですか、という話なのでした。

 おしまい。

       f:id:yokkobukko:20210302170440j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 。

 

 

 

ユーフォーテーブル、すごくないですか

 

 あ、すいません、また鬼滅の話です。でも今日はufotableの話をしようと思います。

 わりとアニメは見るほうだと思うんですが、ufotableものはまったく見たことがなかったんですよね。なんでだろ。ゲームやらないせいかもしれませんね。Fateシリーズも刀剣乱舞のシリーズも知らずにきた。だから私にとってufotableというのは、一にも二にもアニメ『鬼滅の刃』をつくっている会社です。

 アニメから入って、あとで原作を読んだから、特にそう思うんでしょうが、ufotable、異常なまでに忠実に吾峠さんの『鬼滅の刃』をアニメにしてますよね。読み込み方が、ハンパないですよね。えっ、こんな小さなコマのこんな手書きの息遣いまで拾いあげてたの? アドリブじゃなかったの?ってその忠実さにめちゃくちゃ驚きます。

 「えー、会っただろうが、会っただろうが、お前の問題だよ、記憶力のさ」

 「えええーッ、何折ってんだよ骨、折るんじゃないよ骨、折れてる炭治郎じゃ俺を守りきれないぜ、ししし死んでしまうぞ」

 「どーすんだどーすんだ死ぬよこれ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬヒィー」

 「嘘だろ嘘だろ嘘だろ」とか

 まったく一言一句原作どおりですよね。「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」とか増えそうじゃないですか、「死ぬ」が。でも増えないんです。いや、これをきっちり説得力のある発言にする声優の下野紘さんもすごいんですけどね。思い出しただけでおかしい。

 いや、セリフを忠実に再現すれば、原作に忠実って言いたいわけじゃないんです。実際、それにこだわりすぎて、すっぽり魂が抜け落ちてるアニメとかドラマってよくあるじゃないですか。

 ufotableのつくり方の面白さって、徹底的に原作を読みこんで、その解釈を画できっちり見せてくるところにあると思います。それって当たり前っちゃ当たり前じゃないですか、でもこう見事にやってのけられると、おお、ってなっちゃう。

 

 たとえば第5話に、最終選別を突破した炭治郎が、鱗滝と禰豆子の待つ狭霧山へと帰還する場面があります。

f:id:yokkobukko:20210223111857j:plain 『鬼滅の刃吾峠呼世晴著 集英社刊より

 苛酷な最終選別からの帰り道、満身創痍で疲労困憊の炭治郎は、杖にすがりつくようにして一歩、一歩ってなんとか前に進んでるんですが、ついに「支給服すら重い」って路上に倒れ込んでしまう場面です。

 ちなみに「最終選別」というのは、鬼殺隊に入るための選別試験なんですが、実態は鬼がうようよいる山で七日間生き抜いたら合格、という苛酷なサバイバルゲームです。実際、炭治郎含めた生き残り五人を除けば、このたびも二十人近くいた志願者がみな命を落としています。狭霧山において未熟な炭治郎を鍛え直し、技の真の体得へと導いた先輩剣士の錆兎と真菰すらも、昔、この選別で命を落としています。

 

 鱗滝さんが迎えにくるんだろう・・・と思ったんですよね。

 だってわざわざ道に倒れるところが描かれるわけですから。それには意味があるはずじゃないですか。

 第2話で義勇からの手紙を受け取った鱗滝が、入門志願者である炭治郎を迎えに山を下るシーンがあるんです。たぶんそれが頭にあったんですね。きっと、倒れた炭治郎を鱗滝さんがピックアップするんだろう、次のシーンは温かい囲炉裏のそばかもしれないぞ、ってほんと、そんなふうなことを一瞬のうちに想像したんですね。

 ・・・誰も来ないし、なにも起こりません。炭治郎はしばらく、そこに倒れていて、それから、また自分で起き上がって、よろよろ歩きだします。

 !? 

 もう鱗滝さんは助けにこない。そういう次元に炭治郎はいったんだなあという感慨かな、が湧いてきて、うわ、すごいシーンだな、としびれました。

f:id:yokkobukko:20210223104639j:plain

 実はこのシーンには、めずらしくアニメならではのカットが挿入されています。原作には杖をついてひとり狭霧山に帰るくだりはあるんですが、炭治郎が道に倒れ込むカットはないんです。アニメならではの演出なんですね。ほんと、短いカットですが。的確さにしびれませんか?! ・・・こういうとこ、まじで舌を巻きます。

 アニメーションの醍醐味っていうんでしょうか。ほんと、ただこれだけの挿入なのに、シーンの輪郭がぐっと強調されるというか、この場面の意味がぐっと浮かび上がってくるんですよね。ufotableのアクションがいちいち引き立つのって、こういう深い読解に基づく演出があるからだと思います。

 私はこのシーンみるたび高畑勲のアニメ『母をたずねて三千里』の最終二話で、旅の果てに、荒野で倒れ込むマルコ思い出すんですが、その話はまた別の機会にします。

 テレビシリーズ、劇場版ともにアニメ『鬼滅の刃』の監督は外崎春雄さんです。

 すごい人ですよね、神でしょうか、たぶん、神だと思います。

 劇場版における煉獄と猗窩座の対決シーンなんて、ほんとにもう原作をどれだけ読み込んでつくられてんのって思います。間違っても補完じゃないんです、たぶん吾峠さんの頭の中でコマ送りで飛んでった部分を復元してんですよね。このコマとこのコマのあいだにどんな攻防があったら、煉獄はこの状態になるんだって、推理して、検証して、それを画にしてったんだと思うんですよ。それって、それって楽しすぎませんか!?

 

 ああ、また映画に行きたくなっちゃいました。

 ああ、絵コンテ欲しいなあ、映画版発売されないかな。欲しいなあ。

 

超久々に

f:id:yokkobukko:20210219172644j:plain 少し書いておきたいことができたので、発掘してみました。

    何年振りかな。昔の日記読んでみたら、意外ときちんと書いていて驚いた。自分は煮詰まっていくような文章しか書けないと思っていたけど。それって、このごろの傾向だったのか。わりとだらだら書くのが向いているのかも。

 書いておきたいことというのは、「鬼滅の刃」について。

 そのタイトルは一昨年前あたりから耳にはしていたと思う。本屋でもずらっと並ぶ単行本の表紙をよく見ていたけど、詰め入りの隊服を着たキャラたちの様相から、銀魂の周辺的なものかなと、深く気に留めてなかった・・・(誤解なきよう付け加えれば、銀魂は好きです)

 アニメの存在にいたっては、まったく気づいてなかった。

 それが去年、緊急事態宣言が出てたころ、細馬宏通さんがツイキャスだったかひとり語りの番組をやられてて、その中で言及された。これが興味を持ったきっかけ。番組内で細馬さんがなにを語られたのか、今となっては思い出せない。細馬さんが炭治郎(たんじろう)を「すみじろう」と言ってたのだけ憶えている。(ということは細馬さんはアニメではなくマンガについて語られたのかな)

 それからネトフリで最初の二話を見た。主人公の名前は、竃門炭治郎(かまどたんじろう)、ちょっと変わった節回しというか、音感を面白いとは感じたけど、絶対憶えられないと思った。まさか、のちにこんなに親しい名前になるとは思わなかった。

 ファーストインプレッションは薄かったのだと思う。のちの自分の熱狂ぶりを考えると、このときに確実に衝撃を受けていた(愛好の苗床になるような)はずだけど、その自覚はなかった。

 ある日、なんの前触れもなく鬼に家族を奪われ、生き残った妹も鬼にされ、それを人間に戻すために、鬼と闘う道を選ぶ主人公。

 ぽかーんとしてしまった。プロローグ的なものがほとんどない。準備運動というか、物語のあそびというか、そういうものがいっさいなくて、静かではあるけど物語は冒頭からいきなり、決然と、怒涛の本流に入っていく。

 まず、鬼になった妹を人間に戻す! って発想が意外だった。

 そっから諦めないんだ、って。静かな衝撃があった。枠組みが、ごごごって変更されてく感じ。

 たしかになくはない、というか、たとえば「鋼の錬金術師」も肉体を失った弟のそれを取り戻そうってとこから始まる物語だった。でもあれは最初から「等価交換」がテーマだったので、説明要らんというか、最初からその世界の約束事、ルールが提示されている感じはあった。

 炭治郎、というか作者の吾峠呼世晴さん、世界のルールを探るとこから始めんのか、それって、ものすごく面倒くさい道行きだな~、と、ちょっとびびった。

 で、実際、恐る恐る物語を追いはじめたんだけど、一話、一話、ワンシーンワンシーンが面白い。なにかな、これ、なにかな、っという未知のページを繰る興奮が連続していく。とにかくなにを見ても興奮してしまう。新しい人々、新しいルール。

 物語のたちあげに、一から付き合うって、めちゃくちゃ楽しいことだ。面倒くさいって楽しいことなんだよ。そんなの当たり前で、よく知ってたことのはずなんだけど、忘れてたなー。忘れてた喜びが帰ってきたことがまためちゃくちゃ嬉しかった。

 物語の土台づくり、たちあげの時期は、アニメだと10話くらいまで、単行本だと3巻途中あたりまでで、物語が完結した今の時点から振り返ると、あれ、そんなもんだったか、というくらい意外と短い。でも連載誌のジャンプにはそれはシビアな打ち切りの恐怖があるわけで、担当編集者さんとその危機を巧みにかわしてった裏話なんかを読むと、いやあ、よくぞ乗りきった、とまた別の次元でほっとするし、新人の身で(新人だからこそかもだけど)、よくぞ腹をくくって、きっちり描いたよ、と感服する。

 

 それこそ、炭治郎の生涯の仲間となる、善逸と伊之助が出てきてからは、もうなんというか、船はできたよ、乗組員もそろったよ、もうどこへだって、どんな海原へだって、辺境へだって冒険にいけるよーという状態で、もう、吾峠さんにおまかせします、どこへでもつれてってくれーと思いましたよ。

 吾峠呼世晴は、誰に近いっていったら、わたしは迷わず、萩尾望都だと思う。

 吾峠さんは物語をたーくさん抱えている。

 公式ファンブック(鬼滅の刃・鬼殺隊見聞録)で、まだ無名時代の吾峠さんが連載の企画をボツり続け、必死の担当編集者のなにかないのか、誰かいないのかという問い詰めに、最後の最後に、この子が面白いかどうかわかりませんが、と出してきたのが炭治郎と禰豆子! というのを読んだ(担当編集者は「なにそのザ・主人公!」と感嘆したという)。いたんだな、もともと吾峠さんの中に、炭治郎いたんだよ。

 大正こそこそ噂話に代表されるような、細かい設定や、サイドストーリーを読むにつけ、この人の中にはどんだけの子供達がいて、どんだけの物語があるんだろうって、わくわくするんですよ。

 もう、描いて、なんでも描いてほしい。

 描くっていうか、その子たちから、いろいろ話を聞いてほしいし、それをこちらにも伝えてほしい。よかったら、よかったらですが!!!という気持ち。

 

 アニメの話も書きたかったけど、もう今日は吾峠さんの話で胸いっぱいだなー

   うん、とりあえず、少し書きたいこと書けてよかった。

   ではまた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奇跡の人最終回

わたしには好きなドラマと嫌いなドラマがあって、好きなものの理由はいろいろなんだけど、嫌いなものの理由ははっきりしていて、登場人物が(とりわけ脇にいる小さな人物たちが)物語によって不当な扱い、物語の進行のために犠牲にされている、こんな言い方をしてよければそのひとの人生が物語によって搾取されているドラマが嫌い、大嫌い、猛烈に腹が立ってくる。
たとえばとと姉ちゃんの務める会社の上司俳優の斎藤なんとかさんが演じていたあの人が、場面ばめんで時にヒロインに助け舟を出し、時にヒロインを奈落へ突き落す役割を与えられるのを見るはめになる。物語に必要なんでしょう。しかし斎藤さん演じるあの部長(かな)の人間性の踏みにじられ方はない。こんな野蛮な踏みにじられ方はないし、どうりであの俳優さんはいかにもぼんやりした演技をしていると思った。悲しすぎて、テレビ消したくなるし、消したとして、その怒りのやり場はない。

奇跡の人がすごいのは、お伽噺なんだけど、わたしたちの生きているこの現実世界から消しようのない、どうしようもない苦しみや、妬みや、負の側面と言ってかたずけられないような人の心のからんだ犯罪、それを犯す人間が、やはりその物語に抱合されている、という点なんだ。これは昔エンケンが言っていたことと同じ、だと思う。脚本家の岡田惠和氏はほんとに難しいことに挑戦していると思う。
犯罪者がそこで、その世界の片隅にいるという脚本を書くのは難しくないと思う。
でも、そこにそのひとは生きているか、そのひとはそのひととして生きているか、というとそうでもない脚本は多い。さっきも書いたけど本当に人間を踏みにじっていく脚本は多い。ダンプさながらに踏み倒し、なぎ倒していく脚本は多い。

岡田さんは、なんというかからまわりすることも多いひとだ。失敗するときもダイナミック。このたびももしかすると最終回一回前で終わってたら、結果として失敗になってたかもしれない、と最終回を見て、思った。
この最終回は、岡田さんの反骨精神をまことによく表している。と思う。
まず犯罪者がでてきた。一択はそのひとと対峙して伝えたいことを話した。これはすごいなあ。
そして最後のシーンの「楽しい」と「しあわせだ」。海ちゃんは心の底から湧いてくるそれを表現したくなったんだよね、そこを掬いとる目がすごい。
そして、一択の「しあわせだ」の絶叫。ハッピーエンドです。
ハッピーエンドを書こうとする岡田さんのそのあがきというか、その無茶をする姿勢、、、ここでまたやめよう。

ブログ再開したけど、なるべく思ったことを思ったところまで書く未完で、としたい。

奇跡のひと

5日の放送分。
てっきり最終回かと思った。マサシ、ガンバレと少なくとも二回声がでてしまった。このドラマが好きなのは、その場に立ち会っているひとびとが黙ってことの成り行きを見ている、その気持ちが伝わってくるからなんですよ。テレビ観てるひとも黙ってことの成り行きを見てるじゃないですか